昭和50年07月01日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」
昨日の大祓式は、かってない盛大な大祓式になりました。年々歳々ああしておかげを頂いていくと言う事は、しかも昨日の大祓式に感じた事は、日頃はお参りしてない方達が多かった事ですね。是は毎年々々大祓式に現れて来る傾向なんです。と云うのは合楽の金光様に大祓式の時にお参りをしてお祓いを受けておくと、一年中無病息災のおかげが受けられると言う様なものが、信心の無い人達の上にも段々分かって来た。
又祓えつものをお願いしておけば、自動車も事故無しに、一年間おかげが頂けると云った様な事実をね、少しずつ浸透してきた分かって来たと云う事である。夕べの月末の御礼信話会の中でも、私お話をしたことでしたけれども。お祭りと云うものにはそのお祭りの一つの性格と云うものがある。春秋の大祭は言うの及ばず夏の大祭、又は冬の報徳祭。それぞれに形は同じ様であっても、お祭りの性格が違う。特にこの大祓式と云うものは、そんなものを感じます。
私は昨日お説教の中にも聞いて頂きました様に、大祓式と云う例えばお祭りがありますが、そのお祭りは天地の親神様が信心の無い氏子に、手をつかんばかりに信心しておかげを受けて呉れよと云う現れのお祭りだと思うです。云うなら交通安全祈願とか病気をしない様にとの祈願祭と銘打っておるのですけれども、実は私は神様が氏子に手をついて頼んで居られるお祭り。
その証拠には日頃信心しなくっても、祓えつものを出しとっただけでも、一年に一回お祓いを受けて居るだけでも、おかげを受けて居るという事実なんです。信心させて頂きゃこういうおかげも受けられるぞと。だからおかげだけでなくて本当の信心をして呉れよと云う、神の願いが大祓式には込められておると、昨日は事実私も実感しました。只お祓いだけで病気をしなかった、又は無事故で終ったと云うだけのおかげに終ったら、これは神道で言う所の大祓式と、五十歩百歩だと思います。
けどその中に神様の深い願いというものが掛けられておるのが大祓式だと。そして今日の御理解を頂きますと、なるほど、お供え物をせんでも、祓えつもの出しとっただけでも、おかげが受けられる事が分かりますね。おかげと云うのは。皆さん祓えつものをお願いなさいます。自動車の交通安全をお願いなさいます。それぞれにお供えしてありますけれども、全然お供えせんでも、家には自動車が何台もあるからと云うて、それを出しておられる方もあるです。
そういう人達でも、年々おかげを受けておるからです。やっぱお参りもするのです、出しもするのです。お供えものとおかげは付物ではない。お参りとおかげは付物ではない。御用とお供えものは、付物ではないと言う事も言えます。その証拠には御用は頂かんでも、例えて言うなら、毎日毎日お参りして来て、お便所のお掃除は必ずさせてもらうという様な人もあります。婦人部のかたたちは毎日交代で、教会関係の建物のお掃除の御用をなさっておられます。いわゆる教会の御用と云えば。
一生懸命打ち込んで御用をなさっておられる様な方達もありますけれども、只参るだけ拝むだけで御用はせんでも、おかげは受けられとる事実から云うと、御用はせんでもおかげが受けられると言う事になる。毎日毎日日参り夜参りしとえます。おかげを受けられる。お供え物とおかげは付物ではないと言う事は、そういう意味にもなるのです。お供え物はしなくってもお賽銭は上げなくても、お初穂は包まなくても、さぁお月次祭だから御神酒のお供えでもと、せんでもおかげを受けられるです。
そこでこれをこういう風に頂いたら有難いと思うんです。お供え物とおかげは付物ではないけれども、お供え物とお徳は付物だという風に頂いたら良いです。お参りの修行とお徳は引き換えだ。御用と御徳は引き換えだ。お供えはしなくってもお参りは時々であっても、おかげは受けられる。けれどもお徳は受けられない。又のみ教えに寄進勧化をさせて、氏子を痛めては神は喜ばんと仰るです。けれども氏子が真心からのものであれば、それは神のヒレイじゃと仰る。
その神様の比礼を打ち立てる程しの、信心をさせて頂くと言う事は、神の比礼と言う事はそのまま神の勢であり神の喜びなのです。その喜びが返ってこない筈はありません。だから真心一心信心を求めて、一生懸命のお参りであるなら徳を受けます。真心込めての御用ならお徳を受けます。真心一杯のお供え物であるならばお徳は付物であります。お供え物とおかげは付物ではない。成程付物ではない証拠を、私は昨日の大祓式に見た。全然お参りもしてない、お初穂も託けてない。
それでもお願いをしますと云うて、車のはあえつものを出して居られる方もあります。それでもおかげを受けて居るのです。私は昨日自動車を何台も持っとらるる方がお参りになりました。そしてはらえつものだけを持って見えました。そこで私はお初穂があればね、貯めといて後からお届けが出来るでしょう。所がお初穂がないから忘れてはならんと思うて、ここにお届けした途端にカチッとおいさみがつきましたよ。如何にお供えと何かがと言う事じゃない事が分かるでしょう。
問題は私がもしこん奴ばっかりは参って来るばっかり、お供えもせんなそして自動車何台も、はらえつものだけ持って来てと、こう思うとったらです、もうその自動車は助からんです。私は後で自分で思いました事は、私がおかげを頂いとるとこはここだなぁと思いました。お供えが多いから少ないから、いやないからと云うても返って特別にです、忘れちゃならんから、お届けをさせて頂いたんです。その時においさみを頂くのですから、神様のお心と云うのはそういう心なんですよ。
こりゃ参って来る事ばっかりは参って来るばってん、お初穂もせんと云うなら、その人は参っちゃ来んです。おかげ頂かんごとなります。けれどもこの人はおかげだけは、とにかく頂くです。そうですね月のうち四、五回まぁ百円のお初穂をされる位じゃないでしょうか。毎日参って見えます。昨日なんかはそういうお初穂もないです。只自動車が三台あるから、三台のそれを出されただけでした。
だから漏れてはならない。お初穂があれば誰かがちゃっとお届けをするけれども、私も忘れちゃならんから、その場ですぐその三台のお届けをさせて頂いたら、おいさみを頂いた。だからお供え物とおかげは付物ではないと云う事は分かります。けれどもそれでは信心は頂けません。それではお徳は受けられないと言う事。そこでこの御理解を反対の裏側から頂いてです、お供え物とおかげは付物ではなかろうけれども、お供え物とお徳はつきものだと確信するべきだと思うです。
真心からの御用であるならば、必ず信心は進むと思おうです。それこそ真心一心の一生懸命の日参り夜参りであるならばです。これを信心修行で神様が受けて下さらない筈は絶対ないと思うです。今日私はお供え物とおかげはつきものではないと云う御理解を、裏から覗いた感じで聞いて頂きました。だからお供え物とおかげは付物じゃなかから、お供えはせんでもおかげは受けられると言う様な考え方ではなくて、それこそ氏子が真から用いるものは神も御比礼じゃがと仰る事は、お供えだけの事ではない。
一生懸命一心の真をもってです、御用をさしてもらう事もこれは神の比礼です。本気で信心を求めて、一生懸命日参り夜参りなさるならです。それは神様の比礼です。今日は七月の夏の信行が、全教一斉に始まるわけです。此処では一番暑い盛りの一時という時間をして、合楽のめいぶつの様になりました。第一若い者が中心にならにゃならんと言う事でもなかったですけども、若い方達が何時も中心になって、それこそ来ただけでみんなが感動する様な御祈念。
いわゆる一心不乱の御祈念と思うお様な、皆さんが御祈念をなさいます。もうそれこそお広前が割れる様な御祈念会になります。そして汗を流したその後にいわゆる、ミニ御理解です。これがまた素晴らしいです。本当に二分か三分かで一口頂く御理解です。夕べその事を聞かせて頂きましたら、八年間続いておりますから、丁度この御理解が今度の夏期信行の半ばで二回終る事になるです。
この教典のぜんぶがですね二回終わる。それをどうでもまとめて、今度の十年の記念祭の記念出版にしたいと云う話も起こっておるです。こうして二十分も三十分も頂いてというのじゃなくて、ほんの一口の御理解です。それをあそこのとばんに出しますから、それを皆がうつして帰られる。あれが長いならなかなかですけれども、短いですからそれを皆さんが写して行く。
それを楽しみにそういう特別な夏の修行に、そういう二つの性格と云うかね、お祭りの中にも色々性格がある様に。云うならば寒中修行の時には、やっぱり寒中修行の内容、夏の修行には夏の修行の、一つの性格が合楽では段々はっきりして来て居ります様です。そういう意味に於いての、一時からの修行が行われます。ですからそういう一心の真をもって、修行させて頂くなら。
その修行を神様がおかげとも、お徳とも引き換えになさらない筈はないです。そういう修行に参加しなくっても、おかげは受けられる。修行とおかげは付物ではないと言える訳ですけれども、そういう一心の修行をさせて貰うならば、それが徳にならない筈はない。と私は思います。今日はお供え物とおかげは付物ではないという御教えを、裏側から頂いたという聞いて頂きましたですね。
どうぞ。